「作家をつくるということ」中村悠一郎

私にとって制作とは、「作家をつくる」ことである。

作家をつくると言っても、教え子をつくることやもちろん自分の子供をつくるということではない。

自分自身が別名義を制作し、様々なこの世に未だ存在しない作家として作品を制作し、発表することで、「新たな作家を生み出す」ということである。

このようなアイデアは、「作家とはどうあるべきか」という固定観念的な作家像に対する疑問から由来する。

現代美術の世界では、作家名が非常に重視され、ときに作品の内容以上にものを言うことがある。それは、美術史における「作家性」という概念の歴史的変遷に関係している。ルネサンス期に確立された「天才芸術家」像、20世紀モダニズムにおける自己表現としての作家観、そしてポスト構造主義以降に提示された「作者の死」(ロラン・バルト)や「作者機能」(ミシェル・フーコー)などの議論。

そうして、作家名とは、身体的な文脈だけでなく、社会的、制度的な文脈の中で構成され、利用や反復されることによって現実的なものとして認知されていく社会構築的なものであると私は理解している。

作家名とは、身体的な名前の場合ももちろんあるが、そうではない場合もあるという矛盾の中で、私は半ばそれを戦略的に利用するかたちとして、別名義というアイデアを用いている。それは、外部から規定されていってしまう一貫性やアイデンティティというものとしての作家性を、それぞれの名義によって脱中心化し、自分自身のやりたいことがたくさんあるという、本来の複雑な思考を殺さないまま、かつ、人に伝えることのできるかたちとして発信する作家というものを目指している。

各名義は、それぞれ固有のスタイル、メディウム、テーマをもち、ドローイング、写真、パフォーマンス、インスタレーション、プロジェクト、ワークショップなど、多様なジャンルを横断して活動している。

たとえば「Y・N」は、抽象的なボールペンのドローイングを制作し、それが人々に流通していくプロセスまでも含めてプロジェクト化している。「老松孝志」は、特定の場所を持たないパフォーマティブなギャラリーを運営し、自身の別名義のみならず、他者のアーティストも巻き込んだ展示やパフォーマンスの場を企画している。「福岡壱海」は、名義そのものをパブリックな存在とし、他者による使用も前提とし、千年以上続くようなスケールで芸術を再考するためのオンラインの対話型ワークショップを実施している。「栄燿一郎」は、世界中の一般市民を含む多様なバックグラウンドをもつ人々から写真を収集し、その代理人として展示や発表を行うプロジェクトを展開している。「ダニエル・ホール」は、レディメイド・リピティションと名付けたレディメイドである同一の商品を大量に陳列することによってインスタレーションを制作し、資本主義のアイロニーを表現する。「楡木真紀」は、ナンセンスな詩作から出発し、ゆるやかに散文からインスタレーション、パフォーマンスなど様々な分野を領域横断的に表現している。

これら名義の一部はギャラリーなどのアートスペースを通じて、中村の別名義として公認させていく一方で、残りの40を超える名義は匿名的かつ曖昧なかたちで活動しており、多くの場合正体を明かすことなく、中村にとって非公認というかたちで作品を発表している。

各名義の利用は、一度きりで終わりではなく、何度も展覧会に出展したり、反復的に利用している。そのことによって、非現実的だった作家名が、利用や反復されることで美術的な文脈の中で機能してゆき、だんだんと現実的な強度を増していく。

私にとってアートとは、ひとつの身体的な作家名に収束するものではなく、「別名義の作家として作品を制作する」というプロセス自体がプロジェクトであり、そのアイデアと共に分裂しながらも継続し、実験し続けるパフォーマティブな運動体である。